霧立ちわたるむらさきの
ミットレーベン
毎夜明徳寮裏の川原に来る屋台ラーメンが70円、梅割焼酎一杯が30円で100円玉一つさえあれば寮生は豪華に空腹を癒す事が出来た時代。
寮祭・新寮歌大募集!賞金3000円!のビラに、中村昭寿氏(昭41・機械)の目は釘付になっていた。ときに、1962年(昭37)秋、郷里の金沢から夏休みを終えて帰った彼にその賞金は勿論大金に映ったのである。
第16回明徳寮祭に向けて各部屋が、既に展示の準備を始めた頃、発端が賞金の魅力とは言え彼はそれなりに要領良く作詞に挑戦を始めていた。受験参考書“源氏物語”と“古文法解説”そして“新古今集”を片手に、創作の悩みを味わう。しかし謳い上げるべき、迸る様な青春の熱情も、何時しか遠く故郷の駅に別れを惜しんだ恋人を思う詩に形を変えるなど、同僚に冷やかされる事もしばしばであった。
思えば入学のため、はるばる夜行特急“日本海”に乗り、“北帰行”よろしく涙の連絡船で津軽の海を渡り、辿り着いた東室蘭駅は冷たい北国の春。
夜明けの空は、製鉄所の溶鉱炉の火で赤く色どられていた。それはこれからの彼の大学生活が必ずしも希望に満ちたものでは無い事を示唆するかの様でもあったのである。
『しかし明徳寮3寮10班の生活は、6人が新人と言う環境に恵まれ、板の間と和室に、8つの机と布団が各々並ぶ生活の中で、2人の先輩の穏やかで自信に満ちた態度と無言の薫陶は、後に社会人としての貴重な規範と成って生かされた』と彼は振り返る。私もやはり、4年間のミットレーベンが寄与する人間形成への意義に深く同感である。
さてその後、秋冷の朝霧立ちわたる彼方に望む蘭岳に励まされて、彼の青春賛歌は順調な仕上がりを見せて進み、寮歌に選ばれた。しかし、問題の賞金3000円がどうなったか定かではないと言う。まあ、3寮10班の諸君の空腹を癒したであろう事に間違いはないだろう。
さて明徳寮2寮11班の小泉正司氏(昭39・鉱山)は、良く同室先輩のギターを借りては、何時も「禁じられた遊び」などを爪弾いていた。その関係かどうか分からないが、ある日先輩から「霧立ち渡る」の詞を渡されその作曲を勧められたのである。『日頃から寮歌は逍遥歌であるから、歩きながら歌えるものでなければならないと聞かされておりましたので、作曲の基調は4拍子、Andanteとしました。また当時ヒットの「OK牧場の決闘」の主題曲の出だし、ラドミソのソの音の使い方に痛く感激し「霧立ち渡る」の出だし、ミラドミレドミソのソの音にそれを活かしました。また歌詞全体の叙情性を活かすため、弱起の出だしにしました。』と彼は言う。出来上がった曲は、同室を初め関係の寮歌制定委員にも大変好評で迎えられ、めでたく寮祭での発表に漕着けたのであった。彼はこの曲が完成した時、深い安堵と共に学生時代の良い思い出になるな〜と感じた事を、今でも鮮明に記憶しているそうだ。
CD制作に際し、当時の歌練歌詞全集の中にこの「霧立ち渡る」なる寮歌が歌われている事を知り、これも是非収録しようと考えた。室蘭合唱連盟理事長の大橋猛氏(昭44年・産機、中退)に依頼しテープからの難しい採譜も完成したが、運よく作曲者小泉氏からの原譜が間に合い、正調による合唱収録が出来た。
また、「霧立ち渡る」誕生の寮祭ストームリーダーを努めた佐藤陸雄氏(昭38・電気)からは、歌詞の一部の語彙に就いて丁寧な補作提案を頂いた。しかし、氏の寮歌に寄せる真摯な熱情はそれとして、制定から30年以上の歳月を経て寮生に愛唱定着されている事実に鑑み、原詞の儘とした。当時ニューヨーク駐在であった、作詞者中村氏は原詞には余り拘泥がなく寮生に今歌われている現実を重視したい意向であった様に記憶している。
現在、歌練集では「霧立ち渡る」の1番・4番だけが歌われている様であるが、いずれにせよ、「霧立ち渡る」は素晴らしい寮歌である。「荒涼北州」や「北斗の光」に継ぐ第三の寮歌として何時までも歌い継がれるであろう。