星霜去りて幾春秋
我が青春のエール
1951年(昭26)私は北海道の片田舎から室蘭工大に入学した。鷲別駅から石だらけの道に汗を流すこと暫し、やっと辿り着いた水元の岡辺には蘭岳おろしの寒風が吹きすさび、春まだ浅き底冷えのする日だった。
私は卒業までの4年間を、明徳寮2寮9班で過ごすことになる。自習室の奥には万年床の寝室があり、入り口に寝る新入生は夜毎小便に急ぐ先輩たちに頭を蹴られる始末だったが、年と共に新入生にもやがては牢名主の座が保証されていた。殺人だんごに象徴される食事、小夜更けて突如と襲い来るストーム、中庭に轟く窓ション、深夜の牛に聞かせた高歌放吟の吉町坂、鷲別川の逍遥、コンパそして寮祭。明徳寮、それはミットレーベンによる人間形成の場でもあったのである。大学3年目の春、私は何故か明徳寮幹事長に推されてしまった。そして、やがてこの年の復活第7回寮祭は6月27・28日と決まり、各委員の努力で諸般にわたる準備も順調に進められていた。寮祭開始の前夜は恒例のファイアーストーム予行の日である。
暮れなずんだ明徳寮の前庭に参集した寮生は互いに肩を組み、リーダーの音頭と力強い太鼓の音に合わせて天に届けと寮歌を高唱する。若き青春の想いを乗せて歌声は水元の山々に谺し、鷲別街道をうねるように海に向かった。予行練習を終えて寮生の去った前庭には再びの闇と沈黙が戻り、ふと仰ぐと中天には輝く月があった。明日の晴天を期待しながら、私は幹事長として初めての寮祭を絶対に成功させたいと痛く高揚していた。しかしストーム予行について何か得体の知れないわだかまりが次第に脳裏に増幅されてゆく、何だろうか?それは新人の寮歌練習の頃から感じていたものの様でもあった。そうだ、この素晴らしい寮歌の導入部はアイン・ツバイ・ドライだけで無く、もう少し若い魂を揺さぶる工夫が必要なのではないか・・・判ったエールだ。
私は一気に階段をかけ昇り足早に部屋に戻った。部屋の者が寝静まるのを待って電灯を消し、月の光がさす窓辺でしばし瞑想のあと一気に書き上げたのがあのエールであった。それでも何度かの推敲を終えたのは夜明けの頃であったと記憶している。エールは若き友の感性に強く呼び掛け、学生らしい語彙を配し、そしてリズムも重視したつもりであった。再び我が青春のエールを
星霜去りて幾春秋
この寮舎に集う若人は変わるとも
久遠に変わらぬ明徳の誠とその伝統
友よいざ歌え高らかに我らが寮歌
君の内なる青春の琴線を奏でよ
全ては若きシユーレルとしての
感激に帰納されるのだ
翌年第8回寮祭では前夜祭とPRを兼ね、寮史としては初めて全寮生がバスに分乗して市内に繰出しファイアーストームを行った。羽織袴に襷をかけて高足駄の威勢のいいリーダー連を先頭に、墨痕鮮やかな室蘭工業大学の幟を立てた統制委員達と、松明をかざした寮生が長蛇の列を組んで進む。一団は寮歌を夜の繁華街に轟かせながら駅前〜浜町〜小公園と進み道新支社前の広場でストームに入った。星霜去りて幾春秋・・天に冲する炎がエールを雄叫ぶ我々の頬を赤く染めた。円陣を組み、太鼓を打ち鳴らして寮歌を高唱する僚友達の向こうには、多くの室蘭市民の温かいまなざしがあった。かくして寮祭の前景気はいやが上にも盛り上がり成功を収めたのである。まさに、自由奔放な我が青春の思い出を綴る1ページであった。今はエールと共に、裸の赤ふんストームとして伝統が受け継がれていると聞く。