朝蘭岳の秀に映える

作詞はアララギ派の歌人

 札幌は中の島公園の木立ちの中に、北海道文学館が瀟洒なたたずまいを見せて静かに建っている。冬の季節、静まり返った公園の深い雪を分けて訪ねるのは北海道らしくて好きである。矢張り道産子のなせる業かも知れない。この中には、北海道に所縁のある多くの文学者が紹介されていているが、蝦夷地開拓の斧にも似た鈍い光を放っている作品が多い中で、嬉しいのは我らが学歌の作詞者“田中章彦先生”の足跡にも触れられる事である。それは歌壇資料の中に先生の「歌集冬の太陽」が展示されているのを数年前に発見したからである。

 田中先生は金属工学研究の傍ら、アララギ派の写実を身上とする歌人として精進されていて、「冬の太陽」は大学退官後の平成8年に刊行された第8番目の歌集であった。この歌集には、中国戦線に在りし日を訪ねた吟行や、半年は雪に埋もれる北国の空を透かして、太陽が時折見せる輪郭のように、円熟した人生の安らぎ見る歌が多い。その中に、自作の学歌に寄せる思いが静かに伝わってくる一首があった。

    わが作りし学歌を低き声に歌う 老いて友なき夕べ夕べに

 学歌「朝蘭岳の秀に映ゆる」は、先生が生涯口ずさんだ会心の作であったと思うが、先生の晩年に短歌の師事を賜った頃にも遂いぞ聞く機会がなかった。学歌は、先生の雅な語彙を駆使して謳いあげた水元讃歌でもあり、そこに集う若者達の夢と希望を膨らませる青春讃歌でもあると響く。特に最初の第1・2番の詞には、柿本人麿の遠く万葉の世界から連なる大和言葉の雄大な流れを感じ、しかもその格調の高さは最後まで持続されている。
おそらく大学々歌としては、何処に出しても恥ずかしくない一流のものと確信すると共に誇りに思う。穂草が風になびく実験棟の丘に、白衣姿の先生が何時も遥か遠くを眺めておられた、水元の頃が今も瞼に浮かぶ。

作曲はドイツ語講師

 さて、学歌の作曲は文化教室のドイツ語講師であった、金田諦元先生の傑作である。学歌に感激した私の手紙に、先生から返事を頂いたのは確か平成6年の頃だったと思う。当時、先生は既に室工大から北大を経て更に岩手大の教授を努めておられた。

 『前略、お手紙うれしく拝見致しました。やはり歌心をお持ちの保科さんのお耳にとまりましたか、学歌を作曲するに当たって一番心掛けたことは在校生よりも、卒業生が往時を追憶する心情に意を用いました。「青春時代」は後からほのぼの想うもの”とは当を得ています。作曲の出発点は卒業生の懐旧の念に焦点を当てる事でした。保科さんのお手紙は、私の意図の正しかった事の証明でしょうか。・・・明日からのアメリカ出発を前に、ほのぼのとした好気分で出かける事が出来心からお手紙に感謝致しております』

 岩手大人文科学部の封筒には、丁寧なルビを付した歌詞と共に、編曲の原譜が入っていた。 そして学歌作曲の基本的苦労は、矢張り作詞者の雅で格調ある歌詞に音をどう対置させるかであったと述懐されていた。

 学歌の歌い出しは、ご存じの重厚な低音で始まるが曲想の壁は、歌詞1・2番の「今・・・」と、3番の「いざ・・・」にあり応募を諦めようとしていた矢先に奇跡が起こったそうである。鷲別川畔の木造の宿舎に小走りで坂を降りた時の「トートー:ト、ト、ト」と言う歩調にリズムとメロディーを発見した幸運を、何時も忘れないと言う。

 1964年(昭39)に室蘭で開催された国立四工大合唱連盟の定期演奏会では工大グリークラブによって、この学歌がエールの交換に歌われた。その後全学に浸透する4年の熟成期間を経て1968年(昭43)正式の学歌として制定されるに至った。この学歌制定委員長の労を勤めたのは、土木工学科の境隆雄先生であった。

編曲はN響指揮者

 男声四部合唱用の学歌編曲は、当時のNHK札幌中央放送局で同交響楽団の指揮をされていた西田直道先生の手によったものである。

 大学50周年記念事業で制作のCDでは、女声も入った四部合唱の美しく重厚なハーモニーが聞けるが、その編曲の素晴らしさには感嘆するのみである。

 昭和40年を挟んでの数年、私もNHK札幌に勤務しており、時折西田先生の姿を見掛けた事はあったが、まさか母校の学歌に深く関わっていたとは全く知る由も無かった。 記憶が正しければ当時先生は、放送合唱団の指揮も兼任されて居た筈である。

 こちらは、テレビの全国あまねく普及を目指して、北海道の山野を駆け巡り伝播調査や中継局の置局設計に明け暮れていた、30代後半の血気盛んな時代であった。 若しスタジオ担当をしていたなら、先生から多分学歌の話を親しく聞く機会があったであろう。

 今回は西田先生の写真を求めて、先ずはNHK札幌放送局に照会したが40年以前の事とて知る人もなく途方に暮れていた。しかしその後NHK・OBで札幌の伊藤政美氏から、幸いにご子息が東京に居るとの情報が入った。ご子息はNHK交響楽団のれっきとした団員として活躍されていたが、国内外の公演をこなす多忙な時間を割いて貴重な写真をわざわざ探し出し、協力して頂いた。改めて感謝申し上げたい。

 これまで見てきたように学歌を巡る3人の先生は、作詞はアララギ派の歌人作曲はドイツ語講師で自らも合唱を嗜む歌い手、そして編曲が交響楽団の指揮者と言う見事な顔ぶれが揃った。そして生まれた歌は、類いまれな格調の高さと重厚さに満ちあふれている。在学の徒には真摯な研鑽への標となり、同窓の我々には若き日の水元を追憶させながら匠の業に生きる人生への勇気を与えてくれる。

 世に見られる学歌の多くが、外部委嘱で生まれた経緯を持つ中で、この学歌は公募から出発しながらも純正?を維持した点で異色と言えよう。学歌が寮歌と共に、永く後世にまで誇りを持って歌い継がれる事を期待したい。