荒涼北州と青年士官
雲こそ我が墓標の青春
日米の戦局が益々熾烈の度を極めていた昭和18年の春も終わりを告げる頃ここ九州は島原半島の温泉宿で、水元以来の邂逅に嬉しい祝杯を挙げる陸海の青年士官二名がいた。
一人はすぐ近くの大村海軍航空隊で、航空母艦攻撃訓練の教官を努める長身走狗の中原通夫(16・冶金)であり、そして片や工兵学校を経て船舶工兵隊に所属しソロモン群島への転属を前に、郷里佐賀の親達に別れを告げに来た同じく冶金同期の鶴田正男の両名であった。
夕日が橘湾を染めていたのも束の間、やがて空も海も漆黒の闇に包まれ漁り火が蛍のように舞う。 潮風がさわやかに湯上がりの頬を撫でる頃には、お互いの顔もほころび磯の香りと波の音が、二人を懐かしい水元の学生時代にいざなう。友の憂いに我は泣き、わが喜びに友は舞う、戦時下の高工生活は厳しく短かったが、二人が共有した掛け替えの無い人生の原点でもあった。話しは尽きる事なく、飲み歌い且つ踊り、時には悲憤慷慨しつつ青年士官逹の今生の別れとなるかも知れぬ夜は更けていった。やがて・・・・
荒涼北州秋たけて 蒼茫わけしその日より
生誕ここに一年と 健児歌わん記念祭
彼等の寮歌「荒涼北州」が、闇の静寂に万感の寂寥を伴って流れて行った。翌朝座敷に日が差し、目を覚ました鶴田氏の枕元に一片のメモがあった。
『用事があるので先に帰る、元気な貴様に会えて嬉しかった。注意してゆけ。いずれ、俺もゆく』と。2階からバス停に向う海軍士官の後姿が見えた。昭和21年の夏、ラバウルから復員した鶴田氏が知ったのは、台湾沖の海戦で見事敵艦に体当りを敢行した、僚友中原海軍中尉の戦死であった。中原氏は、大の飛行機好きで在学中に札幌まで通いながら、単独飛行の資格を得たと言われている。さぞかし熟達の飛行教官ではなかったろうか。それにしても、同窓にとって寮歌は、若き日の絆と友情をを培ってくれた珠玉の糧にもたとられよう。