荒涼北州秋たけて
明徳寮生誕記念祭
北辰の地に蒼茫を分け明徳寮が生まれて一年、そこに集う健児逹に取っては待望の明徳寮記念祭がやって来た。1941年(昭16)11月3日、当時はいわゆる明治節の佳き日である。市民に向けた寮祭案内には、室蘭高工の先輩逹の心意気が行間からも伝わって来るようだ。
『拝啓 晩秋之候将に酷なるの砌益々御清祥之段奉慶賀候。陳者本寮生六百儀昨年十一月入寮以来此處に満一年を迎え寮生としての生活も落ち着きを得候いしは偏に各位の御懇篤なる御賛助御援助の賜と存奉深謝候。就いては来る十一月三日の佳節を朴して同日午前十一時より寮記念祭を行い開寮し各位の参観に供し度く存じ候間御多忙とは存じ候へ共萬障繰合わせの上蒼 々たる大洋と四方山の紅葉御観賞旁々何卒一家挙って御来寮の栄を得度く是に謹んで御案内申上候。 猶当日の催物は・・・・・』
またこの案内状の中程には、微笑ましいくだりも見られる。
『当日御来寮の方には秋の芳り高き美味なる野食を少々御饗應致し度き所存なれど昼食は出来る丈け御携帯被下御願ひ申上候』
「秋の芳り高き美味なる野食」とは一体何処から調達したものであろうか?いや単なるパロディーか。日米の風雲急を告げる時局の制約下にあっても尚健児六百の意気はまさに軒昂たるものがあり、記念祭は若さを発散させる格好の機会でもあった。この記念祭に発表された寮歌「荒涼北州」は青春のそこはかとない哀調と寂寥に満ちた秀歌であり、星霜60有余年を経ても絶ゆるなく愛唱されている。これを後世に遺してくれた先輩諸兄に今も深く畏敬の念を禁じ得ない。
さて、荒涼北州の作詞者は田中舘敬橘氏(昭16・採鉱)であり、作曲者は藤岡啓一氏(昭23・冶金)であった。作詞者は世界的に有名な異色の物理学者田中舘愛橘博士の孫にあたり、文科系の学校を経て室蘭高工に入ったと言われている。
『彼は詩歌だけでなく、寮祭の演劇台本までも手掛けるなど、その文才は自他共に認めるものがあったし、片やバンカラな雰囲気も持ち合わせていた』と同期の村上護氏(昭16・採鉱)が述懐している。また荒涼北州の作曲者である藤岡啓一氏は『大学構内は今や整備された偉容を誇るたたずまいを見せ、そこには昔を偲ぶ縁もないが次第に薄れ行く記憶の中で懐かしく思い出されるものと言えば、点呼・マラソン・植林・そして寮祭の光景でしょうか。簡素な校舎をバックに、雑草の生い茂る赤土の広場、そして緑の丘が見える六っの寮が若き日の舞台の全てだった様に記憶してます』と語る。そして更に『田中舘先輩の荒涼北州の詩は、その頃の情景を物心両面から良く捉らえていると思います』と付け加えた。
田中舘氏は室蘭高工卒業後、一旦北海道の銭亀沢鉱山に就職したが間もなく征途につき、その後惜しむらくは南暝の地におい戦死された。60年以上も前に故人となられた作詞者の写真を四方八方探した結果、幸いに旭川中学時代からの級友である富永栄氏(昭16・採鉱)の資料から小さいポートレートが発見され、また村上氏からはマント姿の集合写真等を提供して頂く事が出来た。血は争えないもので、このポートレートを良く見ると、記念切手にある祖父の田中舘愛橘博士の顔と良く似通っている。
定かではないが、田中舘氏の類いまれなる文才からして、寮歌の作詞は競うものなき彼の独断場であったと推測される。一方、初めての寮歌のメロディー募集には高い関心が寄せられた。当時の明徳寮では、レコード音楽観賞や演奏会などの活動が非常に盛んで、音楽的才能のある学生が多かったのである。その一人、マンドリンクラブでギター伴奏をしていた藤岡氏が作曲に立ち向かう。
戦時とはいえマイナー調のものを目指して作曲を始めたが、メロディーに固執し過ぎて、歌う人の事を無視したような曲になってしまい、ギターを抱えては呻吟する毎日であった。先輩や同僚の意見も聞きながら何度修正を繰り返したであろうか?かくして出来上がったのは、もう締切りの前日に成っていた。そして審査は明徳寮の大食堂で、マンドリンクラブのメロディー演奏のみで行われ寮生による人気投票の結果、見事に藤岡氏の作曲が選ばれた。
藤岡氏はレポートに追われて、その時食堂には居なかったが早速に知らせてくれた同僚の話が、最初は半信半疑であったそうである。
同室でマンドリンの名手であった先輩が帰ってきて『お前の為に皆特別最高の演奏をしたんだぞ! ヤー疲れた』と向かい側の椅子にどっかりと座った事を藤岡氏は今も覚えている。
やがて記念祭に備えて寮の娯楽室で寮歌の特訓が始まり、藤岡氏は作曲者としての歌唱指導を任されて大いに苦労をする事になった。しかし『記念祭の夜、明々と燃え盛るファイアーに照らされて、捩じり鉢巻きに半裸の寮生たちが踊りの果てに天を仰いで寮歌を高唱しながら、最後の青春の一時を謳歌する光景は感激でした』と、藤岡氏は苦労して作曲した寮歌が、四囲の山々に谺しながら鷲別街道をながれ、炎と共に天に昇華するのを見た。その感激も束の間、1月後には真珠湾で日米戦端の火蓋が切って落とされ翌春藤岡氏は出征し赤道直下を転戦、再び水元に戻ったのはその5年後であった。
札幌に住む藤岡氏は、今なおご健勝で自社を経営されており、今回の執筆に際しては多大なご支援を賜った。まさに「日残りて昏るるに未だ遠し」の気概に生きる先輩に改めて敬意を表したい。
作曲者の藤岡氏からは、今に歌い継がれる荒涼北州、つまりCD収録のそれが記念祭応募の原曲と多少違う部分があると、指摘されている。歌は世に連れ、世は歌に連れ、世に三高の「琵琶湖周航の歌」の例など寮歌の変遷は枚挙に暇がないが、原譜だけは厳然たる事実として寮史に残したい。いずれにせよ、荒涼北州が我らが永遠の寮歌である事に変わりはない。
熱き疼きよ北州の歌
平成21年3月10日、東京は新宿駅に近いレストラン・レガルに、私は田中舘貢橘氏が現れるのを待っていた。貢橘氏は、あの明徳寮歌「荒涼北州」の作詞者である田中舘敬橘(けいきつ)氏の弟に当たる方である。
貢橘氏に辿り着いたのは、二戸が生んだ世界的な物理学者・田中舘愛橘博士の曾孫に当たる松浦明氏への照会に始まり、更には二戸市立二戸歴史民俗資料館長の菅原孝平氏による真摯なご協力が実を結んだものであった。私が長年に亘り進めてきた「母校の学歌・寮歌」は既に編纂を終え、同窓会のホームページに掲載してあるが、「荒涼北州」の章を更に補完する意味で、貢橘氏との出会いに大きな期待を膨らませていたのである。
田中舘貢橘氏は音楽家で、東京教師会長も勤められ、多くの作曲や教育関係の著書があり、今なお教育の現場で活躍をされて居られた。やがて、その貢橘氏が静かに語り始める。
『父が旭川鉄道局に勤務してましたので、軍都旭川での厳しい躾と、冬の寒さが思い出です。男ばかりの4人兄弟で、兄敬橘は次男、私は兄から四っ下の三男です。兄はロマンチックで文学的センスにも長けていましたが、信条としては可なりの硬派でした。またスポ-ツも大好きで、野球や雪中ラグビ-・スキ-などで良く一緒に遊んだものです』と、旭川での少年時代を懐かしそうに回顧されるのだった。思うに寮歌「荒涼北州」は、田中舘敬橘氏の類い稀な感性と文才によって謳い上げられたものであると納得しながら、貢橘氏の話を伺う。
『兄は室蘭高工を出てから、函館に近い鉱山に勤め、昭和18年頃には招集で盛岡の連隊に入りました。一度休暇で帰った兄が静かに、戦争は嫌だ概と呟いていたのを覚えています。これが兄との今生の別れになりました。そんな兄でしたから、最後まで幹部候補生にも志願せず2年後には、中支の湖南省で戦死しました、25歳でしたから本当に残念な事です。とにかく私ども兄弟が共有しているのは、少年時代のほんの短い残照でしかありません』と。
しかし広漠たる中国の山野に若くして散った先輩田中舘敬橘氏の思いは、寮歌「荒涼北州」として遥かなる北の大地に、今も脈々と受け継がれて居る事に、私逹は安らぎさえ覚える。さらに、田中舘愛橘博士との関係については『私どもの父周助は、親戚に当たり世界的な物理学者でもある田中舘愛橘博士を意識して、愛橘に負けるなと子供達には、秀橘・敬橘・貢橘照橘と全員に所縁の名前を付けたのでした』と言われ、最後に貢橘氏は『今日はお陰様で兄の若き日の寮歌「荒涼北州」の事も初めて伺い、兄の供養にもなる話をさせて頂きました、感謝致します』と合掌されて話を結んだ。
さて、敬橘氏と愛橘博士の関係については、愛橘博士の曾孫である松浦明氏の家系図を始め菅原館長の献身的な調査で明かになった。これには、二戸市の田中舘愛橘会に蓄積された資料も大いに参考になったのである。具体的には、敬橘氏の父周助氏の話として「早稲田の学生の頃、田中舘愛橘博士が遠い親戚なので、会いに行った」と言う事を直接聞いた、平 仁氏(周助氏の義理の甥、二戸市)の証言が得られ、また愛橘博士を溯る6代目の辺りで敬橘氏に繋がる家系分岐の可能性も指摘された為でもあった。
従って、前述の「母校の学歌・寮歌」の中で“敬橘氏は愛橘博士の孫と言われている・・”としてきた私の記述は、正確を期す意味から改めて“遠戚”と訂正させて頂きたいと思う。高工蒼茫の頃の先輩たちが、二戸が生んだ偉大なる物理学者「田中舘愛橘博士」と同郷・同姓であるが故に、田中舘敬橘氏をしてその孫として自然に醸成して来たのかも知れない。しかしこれで、我等が寮歌「荒涼北州」の作者田中舘敬橘氏に寄せる畏敬の念に、些かの揺るぎも生じないことは勿論である。
二戸市歴史民俗資料館長の菅原孝平氏からは田中舘敬橘氏の今回の調査が二戸市にとっても貴重なものであり、敬橘氏墳墓の地を誇りに思うと共に、その夭折が悔やまれますと、温かいお言葉を頂いたのであった。
平成21年9月、私は二戸市を訪ねていた。敬橘氏が眠る龍岩寺は、憂国の義士相馬大作の墓もある由緒ある寺で、広い田中舘家の墓地の中に、敬橘氏の墓が祖父母や父周助氏と仲良く並んでいた。墓碑には「昭和20年4月28日、湖南省に於いて戦死、陸軍伍長田中舘敬橘、享年25歳」とあり、線香をたむける私の背を、ふと一陣の風が吹き抜け、樹々の梢に謳うように鳴った。
同窓会誌「モ・ルラン」53号(2010.4.1)より転載