埋もれたる歌に寄す
−室蘭高等工業学校々歌・・大陸および南洋に−
大陸および南洋に 国威ひとしく振るうとき
北斗の高き北海の 全道唯一室蘭に
高等工業校たちぬ
1941年(昭16年)に制定された校歌々詞の1番である。作詞は土井晩翠、作曲が東京音楽学校(現東京芸大)であった。吉町高工校長の知り合いだとされる土井晩翠は作詞の下見を兼ねて来校したが、その折の英詩の講演は格調も高く渋い風貌と相俟って学生逹を大いに魅了した。
しかし残念ながら、校歌の方は期待した「荒城の月」のような荘重さは無く只時局に媚びただけの平凡な内容に、学生達は痛く失望したと言われている。
ご存じのように土井晩翠は詩集「天地有情」に始まる、男性的で勇壮な作風で知られ、「若菜集」で世に出た島崎藤村の女性的な柔らかさと事あるごとに対比されてきた。間違いなく当時は日本近代詩の夜明けを代表する天才詩人の1人であったのである。学生達の落胆も目に見える様な気がする。
東北は仙台に生れ育った晩翠をしても、雄大な北海道の大自然に圧倒されてその中に息ずく青春の感慨さえも謳いあげられず残念な結果になった。思うに、晩翠は当時既に70歳、迸るような感性も萎えた老境にあったと勝手に解釈すれば、納得の行く話ではある。
晩翠に失望した学生達は、やがて出来た「荒涼北州」のそこはかとなく漂う哀感に、我が身を重ねながら愛唱する様になって行った。
さて、校歌の楽譜探しは究めて難渋を究めた。その原因は前述の様に、この校歌が埋もれた歌であったため考古学的?な発掘調査を必要とした事が先ず原因である。
大学や同窓会本部は勿論、考えられる高工時代の諸先輩には相当の数の電話を差し上げてお話しを伺った。試行錯誤の調査は1年にも及んだだろうか。電話口で先輩が『あ〜知ってるよ・・大陸および南洋に・』とメロディーまでも口ずさむ確かな手応え、すかさず『楽譜の方は?』と聞くと異口同音に『そりゃ無いよ昔だもん』。それは実に忍耐が要るステロタイプ的な作業の連続であり、万事窮す、今年の夏頃には楽譜無しの纏めまで考えるようになり、画竜点睛を欠く無念さを噛み締めていたのである。
昨今は炎暑の8月になると、無性に戦記物を読む癖が付いて、今夏も「特攻の書」などを鎮魂の思いで読み耽っていた。敗色濃厚な大戦末期には「旧式で整備もまま成らぬ特攻機の多くは、沖縄海域に到達前に撃墜されたり、途中の島嶼に不時着せざるを得なかった」と言う。その時、とある先輩の事が脳裏を過ぎった。
石井春雄氏(昭17・電気)、戦時1式陸攻の機長として活躍し、不時着負傷の経験も持つ海軍中尉、NHK時代の私の上司でもあった方である。札幌に住む、電話口の先輩はお元気で、ご無沙汰見舞いから序に話が楽譜の件におよんだ。その翌日、なんと幸運にも石井先輩の高工3期卒業アルバムに楽譜が発見されたのである。
しかしこれが、楽譜の上に歌詞を大きく書いた写真で、更に音符が手書きであるため読取りが難しく、音符そのものも一部怪しい所があった。これからは専門家の登場である。竹馬の友で音楽教師、苫小牧に住む木村孝君にお願いして無理やり採譜をして頂いた。何回もテープを送って貰いながら実際に歌い、限りなく正譜に近いと思われるまで推敲した結果が、今回掲載の楽譜である。
将来、どこかで正確な楽譜が見つかり次第完全に修復されるようお願いする。
生誕記念祭寮歌・・北洋さむく潮けぶり
北洋さむく潮けぶり 原始の森は今もなお
荒涼はるか十一州 道南ここに蘭岳の
秀ずる麓水清き 郷に立ちたる我がまどい
昭和16年、「荒涼北州」が生れた同じ第一回明徳寮記念祭に、当時の機械工学科教授であった堀内利正先生が作詞・作曲され特別応募されたものであった。流れるような七五調の雄大な歌詞が3番まで続き、メロデーも無理なく歌詞に調和した良い歌であると思う。先生は昭和15年に福井高工から赴任されたので、「北洋さむく」はその翌年の作品と言う事になる。
先生の奥さんは、今で言う東京芸大の出身で音楽における造詣は並々ならぬものがあると噂されていた。ご子息には堀内利基氏(昭和28・工化)がおられ、学内で良くお見掛けしたものである。
「荒涼北州」の作曲者、藤岡啓一氏(昭23・冶金)には堀内先生の奥さんに纏わる、ほろ苦い思い出がある。明徳寮の大食堂で行われた審査会で「荒涼北州」が多数決当選して間もなくの事、友達と堀内教授宅を訪れた。
雑談のなかで寮歌が話題になったとき、ピアノの側で「荒涼北州」の楽譜を眺めていた夫人から『素人の曲ですね』と痛烈な批評を頂き、ほうほうの体で退散したそうである。教授宅の訪問は、空腹を抱えた学生達にとっては楽しい一時だけに、忌憚のない会話も飛び交っていたのであろう。
平成12年頃、室蘭工大東京EEC(電気・電子・情報系同窓会)の席上で石川哲氏(昭22・電気)から、明徳寮の写真に「北洋さむく」の歌詞が入ったコピーを渡されて、作者や曲を是非知りたいと言う話があった。氏は同窓会活動にも大変熱心で何かとご指導を賜っていたが、何時も寮歌を高らかに歌い上げる熱血漢で、その青春を彷彿とさせる雰囲気に満ちていた。
私は先輩の熱い思いに応えるべく調査をすすめ、やっと全貌が分かった平成15年の春、残念にも氏は急逝されてしまった。その後、ご家族を通じ改めてご霊前に「北洋さむく」の報告をさせて頂いた。
『突然のお便り失礼申し上げます。私は石川哲の一人娘でございます。室蘭工業大学同窓会にて父が大変お世話になり心よりお礼申し上げます。実家で保科様からのお手紙を拝見し、日頃から工大時代の話をする父の嬉しそうな顔が浮かび・・・・もう少し頑張っていたら保科様からの朗報を共に喜び合えた事と存じます。近くカトリック八王子丸山墓地に納骨、その前にきちんと保科様へご挨拶をしなければ父に叱られそうで遅ればせながら筆をはしらせております。今後もますますのご活躍と工大の繁栄、保科様のご健康とご多幸を心よりお祈りしております。母、石川タカよりも暮暮も宜しくお伝え下さいと申しております。感無量、言葉にならない気持ちで一杯でございます。』
と娘さんの手紙にあった。同窓の青春と思い出が、愛する家族のなかにも温かい絆として残されている事実に深く感銘を覚えるのである。「北洋さむく」に続く4番に、石川哲作として書き留めた氏の歌がある。
いざ漕ぎいでむ内浦に 有珠の煙のたなびきて
漁り火遠くきらめきぬ 茜の空の消ゆるとき
ああ友よ伝えてよ 征きては還らぬ若き日の
われらがみたま、のちのよも
そこはかと漂う青春のロマンか、若くして戦場に散った友への鎮魂歌か、充実せる人生完成への諦観か、先輩の魂は今も内浦の漁り火ときらめく。
堀内先生の寮歌「北洋さむく」は選にもれた生い立ちを抱えながら、同時期の「荒涼北州」の人気に隠れて埋もれる運命を辿った。 惜しいことである。
復活第7回明徳寮歌 白雲しのぐ蘭岳の
白雲しのぐ蘭岳の 麓の緑陽に映えて
友よぶ鳥の声々か 若人集う明徳の
寮歌の声の山彦か 樹の間の調べさやかなり
昭和28年、戦後の復活第7回寮祭の記念歌として、私が作詞したものを前述の「北洋さむく」の作者堀内教授が作曲して選ばれた寮歌である。
当時、明徳寮幹事長をしていた私はこの寮祭に是非記念歌を残そうと、全学に呼び掛けたが結果は数編の低調な応募に止まりがっかりした記憶がある。そして、結局は「白雲しのぐ」が入選したと言うか、これしか無かったのが実情であった。
その後選考委員の一人であった文科教室の鷲山第三郎教授の添削があって、私の原詞はたおやかに変貌していった。淡々と進められた堀内先生の作曲は、「北洋さむく」のそれよりも柔らかく素晴らしいものになっていった。しかし歌詞のせいもあって、凡そ寮歌のイメージよりも合唱編曲をすれば音楽コンクールの課題曲?と言う感じの良い歌になったと思っている。
白髪の痩身をすっくと伸ばし、構内を行く鷲山先生の姿はこれぞ大学教授の感があった。ダンテの「神曲」の講義などでは宗教的・文学的な思想の深淵を詠うようにして覗かせてくれたものである。
また不慮の火災で失われた工大の図書復興に際して、先生が果たした役割は大きなものがあった。特に婦人協力会に支えられて燎原の火の如く全市に広まった先生のシェイクスピア講義は、「乳房なき幼児に」と題する文化講演として共感を呼び当時で55万円にも上る募金が寄せられたのであった。今も母校図書館の一隅に、この時の婦人会による贈書が見られる筈である。
「白雲しのぐ」は、結局当時の合唱部により披露されたのみで、埋もれた歌の一つに成ってしまった。しかし私にとっては我が青春を呼ぶ歌であり、今も口ずさむ度に、明徳寮の日々が、水元の丘を渡る風が、頬を撫でる。