北斗の光かすかなる
吉町坂記念碑
1943年(昭18)秋、「第5回明徳寮祭に捧げる歌」のガリ版を手に、寮生や参会者に熱心な歌唱指導を行う小柄な学生がいた。その寮歌は「北斗の光」で、この学生入江伸氏(昭19年・採鉱)が作詞・作曲したものである。彼は何故か、予め公募されていた仕組みを経ずにこの寮歌を披露したため岡本先生(アララギ派歌人)からお叱りを受ける羽目になった後日談もある。「寮歌の官製?」にたいする細やかなレジスタンスか、はたまた多感な青春の情熱がなせる寮生への「檄」であったのか、定かでは無い。「荒涼北州」に継ぐ第二の寮歌として、今もこよなく愛唱される「北斗の光」登場の一幕であった。
実はこの年の春、入江氏逹スキー部員4名は札幌の手稲山ヒュッテで短い合宿を張っていた。たまたま北大のスキー部員2~3名の先客がいて同宿の形となり,共に激しい練習に明け暮れていたのである。雪に埋もれたヒュッテにランプが点り、貧しい自炊の夕食も終えたある日、夜のつれずれに『お互い寮歌でもやろうか』と言う事になった。北大の連中は手垢にまみれた分厚い寮歌集を手に「都ぞ弥生の雲紫きに」から「瓔珞磨く石狩の」へと何曲も歌い続けた。『さて室工の番になったが、こんな辛い惨めな事はなく我々には荒涼北州しか無かった。しかも山中の一軒家とて、介する何人もなく室工と北大の2者があるだけ、意気に於いて敵を呑むのみ』と入江氏は無念の涙を流したと言う。
しかしこれを契機に、日頃から抱いていた荒涼北州に続く寮歌を・・が彼の悲願となって行ったのである。爾後折に触れては曲の構想を練る日々だったが、その年の夏休みで郷里に帰っていたある日の午後突如として曲想が湧く。それから慌てて近くの小学校に飛び込み、古いオルガンを拝借してメロディーを五線紙に書き込んだのである。ご令室春子様の手紙には、若い入江氏の写真と共に、その小学校は北海道の奈井江尋常小学校ですとあった。
その後、楽譜は何度か手直しがされ、次に春夏秋冬に添って作詞がされて行った。今は歌われていない原作詞の2番夏の章を紹介し、入江氏の迸る青春の熱情を偲びたい。
颯々の風天を行く 月漠々の太平洋
一舟影なき明鏡や 想いは遠くソロモンの
尊き神に捧ぐなり 怒髪天をも衝かんかな
1985年(昭60)、卒業式に招かれた入江氏が驚いたのは先ず、胸高に袴を着けた女子学生の艶やかな晴姿を散見した事であり、更には「北斗の光」が学生オーケストラにより見事な編曲で演奏され卒業生を送る光景であった。『この歌は私が作り、40年以上も歌い継がれているんだ!』と思わず叫び度くなったと後で述懐されていたと言う。
北斗の光の一節に歌われる「吉町坂」。今は立派な道路が走り、昔日の面影さえも定かではないが、水元に学んだ同窓にとっては、折々の時代に通い馴れた、万感の想いが残る坂である。松村司郎氏(昭20年・採鉱)によれば『予備学生を志願したり召集を受けて旅立つ先輩を、寒い夜風や雪の中に何回と無く東室蘭まで見送った。その度に吉町坂を通りながら、いつ我々の番が来るだろうかと思った』そうだ。吉町坂は鍛練のためのランニングや通学のコースでもあったが、何と言っても忘れ得ないのは、美酒を嗜んだ巷から深夜の明徳寮への帰投であった。坂には街灯もなく真っ暗な石だらけの凸凹道、ポツンと農家が一軒、肥溜めの匂いが風に乗って漂う。酒も覚めかけた寮生にとって、夜の吉町坂はけだし難関?であり、最後のエネルギーを寮歌で絞りだしながら越えたものである。
吉町坂の名前は、汗を流した運動部の連中が坂の途中で小休止する談笑の中で昭和16年前後に生まれたと言われるが、高工の初代校長、吉町太郎一先生に対する学生たちの尊敬ぶりが伺える。先生は名古屋高工、北大工学部を経て着任され、人格高潔にして勲一等、わが国橋梁工学の権威でもあられた。
1996年(平8)6月13日、吉町先生を偲ぶと共に大学、同窓生、地域の人々を何時までも結ぶ絆として、吉町坂記念碑が建立された。記念碑には、元同窓会長の蝦名忠武氏(昭16年・採鉱)による揮毫と共に
吉町坂に風黒く 夜霧に沈む明徳寮
朴履の音も高らかに・・・・・・・・
と、入江伸氏の寮歌「北斗の光」の一節が原詞のままに刻まれている。記念碑は、母校が水元に蒼茫を分けて以来60有余年、この地に学んだ多くの同窓生にとって、まさしく「わが青春のモニュメント」でもあろう。記念碑建立事業に、同窓生から多くの浄財が寄せられた事実がそれを如実に物語っている。今に学ぶ諸君も、たまには歩いて吉町坂を渡り、現代なりの黒い風を感じては君達と同じ様に、この地に漲る青春を過した先輩逹に思いを馳せて欲しい。
記念碑の除幕式には、杖をつきながらも入江伸氏が奥様と一緒に出席され自らのリードで参会者と共に、朗々と「北斗の光」を歌われた。当初から建立事業の事務局として携わった高宮則夫氏(昭47年・開発)の話では『久し振りに聞いた入江先輩の寮歌とその姿に胸がジーンと締め付けられ建立までの1年間の苦労がスッと抜けたような気がしました』と回顧する。建立の翌年、入江氏は「羽音もさやに啼き亘る一烏」となり天に昇られた。1999年(平11)、夏休みの孫を連れて有珠郡大滝村に、親戚の牧場を管理していた同期の高久昇君(昭30年・電気)を訪ねる機会があった。その時近くのトクシュンベツ山に登ったが、彼が子供の頃山頂に乱舞する高工学生らしき姿を見たと言う話に、ここ迄足を延ばした先輩達の心意気に驚く。これに触発されて、久し振りの水元を訪ね吉町坂記念碑もこの目で確かめる事が出来た。以前確か北村名誉教授(電気)の叙勲祝賀会の折、たまたま札幌に出張中でこれに参加し、入江先輩にお目に掛かる僥倖を得た。「北斗の光」と共に、今もあの元気なお顔が懐かしく想い出されるのである。